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藤が丘(ふじがおか)は、愛知県名古屋市名東区の町名である。郵便番号465-0032。 名古屋市の統計によると2012年5月1日現在の藤が丘の総人口は1,349人で、これは名東区内の町別人口でみると全151町のうち34位である〔名古屋市 町・丁目(大字)別、年齢(10歳階級)別公簿人口(全市・区別) 〕。ただし、藤が丘を単独の町名としてではなく広域地名として捉え、近隣で同じ学区を構成する藤見が丘、明が丘、富が丘などを含めて考えた場合、人口は約12,000人となり、これは名東区全体の人口のおよそ1割弱にあたる。 ==地理== 藤が丘は名古屋市名東区の東部に位置する。北で富が丘、東で朝日が丘、南で藤見が丘、南西の道路上の一点で小池町、西で明が丘・高柳町、北西の道路上の一点で豊が丘と接する。長久手市との市境も近い。 名古屋市名東区の東部には東山丘陵や八事丘陵といった標高100m前後の丘陵が連なっており、藤が丘が位置する一帯を東部丘陵地帯と総称する。このあたりは全体的に標高が高く、藤が丘もまた、小さな丘陵によって構成されている。こうした藤が丘の起伏ある地形は、矢田川、そしてその支流である香流川・藤の木川といった藤が丘の北部を流れる河川による浸食作用によって形成されたと考えられている〔名東区区制20周年記念事業実行委員会編『文化薫る思いやりのまち 名東区』(1995年)、2頁。〕。藤が丘駅の西にある明が丘公園のなかにある丘が標高75mとこの周辺で最も高い位置にあり、今では展望台が設けられている。かつてはこの小高い丘を富士山と見立てて富士浅間社が祭られ、そこに山岳信仰の影響を見てとることができる〔小林元『猪高村物語』(1988年)、150頁。〕。一説には、現在の藤が丘という地名の由来となった「藤森」(本記事内の歴史の項を参照)は、明が丘公園の小高い丘を「富士」とみたて、そこに近隣の「森」を組み合わせた「富士森」に由来するとも考えられている〔同上、151頁。〕。 藤が丘の近辺には、農業を中心とした村落生活の名残として、灌漑のための人工的なため池が無数に存在していた。しかしそれらの多くは土地整備事業の過程で潰された結果、明徳池など比較的大きなものが現存するだけである。藤が丘駅からほど近い位置にある名古屋市立藤森中学校のある土地は、周辺よりも窪んでおり標高が低いが、これはかつてため池だったからである。その周辺は、かつての灌漑地としての記憶をとどめるために、小池町と名付けられている〔名東区開設5周年記念誌編集委員会編『のびゆく名東区』(1980年)、117頁。〕。 藤が丘周辺の植生は、現在は猪高緑地などにその名残が見られるが、そもそもはカシ・シイ・コナラ・ハンノキといった低木類によって天然林が構成され、そこに人工的に植えられたクロマツ・スギ・ヒノキが加わえられ、丘陵地帯の風景をつくりだしていた〔名東区区制20周年記念事業実行委員会編『文化薫る思いやりのまち 名東区』(1995年)、8頁。〕。さらに、そうした丘陵の一帯は芝で覆われ、農民たちの貴重な燃料として伐採されていたという〔小林元『猪高村物語』(1988年)、150-151頁。〕。しかしながら現在の藤が丘の街区ではこうした植生を目にすることはほとんどなく、都市計画に伴って整備された街路樹、とりわけソメイヨシノに代表されるサクラが多く見られる。このサクラの風景にちなんで、現在では藤が丘中央商店街によって、4月上旬には「さくらまつり」が開催されている。 そのほか、地質など地形についての詳細は名東区、気候については愛知県の記事を参照のこと。 現在の都市としての藤が丘は、名古屋市営地下鉄東山線およびリニモの藤が丘駅や、東名高速道路名古屋インターチェンジといった都心と郊外を結ぶ交通の結節点に位置している。このことから、名古屋市のベッドタウンとしてだけではなく、長久手市や日進市、尾張旭市といったさらに東の郊外地域から名古屋市の都心へと人間が移動する結節点としても重要な役割を果たしており、駅前にはマックスバリュや飲食店街を中心とした繁華街が形成されている。こうして多くの人間が居住・滞留・通過するためか、藤が丘は栄、名駅、金山地区とともに、名古屋市の中で四カ所しかない路上禁煙地区に指定されている〔名古屋市・安心・安全・快適条例「路上禁煙地区」及び「喫煙者の責務」 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤が丘 (名古屋市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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